北方学と人類学   煎本 孝

1. 北方文化から人類の普遍性へ
 北方文化とは北方地域独自に見られる生活様式−生態、社会、文化−であり、人類進化史的には新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の北方ユーラシアへの進出とアメリカへの拡散にさかのぼり、現在に至るまで変化しながら展開する北方地域文化の総体です。同時に北方文化研究は広く人間の研究でもあります。北方地域を文化的領域と考え、広く北方ユーラシア、日本、北アメリカと設定し、その文化的特徴が北方の特質なのか、人類に普遍的なものなのかを常に他の地域と比較検討しながら研究を進めていくという方法をとることができます。そうすることにより、北方文化を人類文化全体の中で位置づけ、同時に「人間とは何か」という、より普遍的な問題に近づくことができるからです。
 じつは、北方文化を以上のように定義し、また研究の方向性を定めたのは、平成3年(1992年)に北方学会を設立し、同年、学会設立記念第1回国際シンポジウムを北海道大学において開催した時のことでした。そして、現在に至るまでの約10年間に3回の国際シンポジウムを開催し、それぞれ「北方における宗教と生態」、「北方におけるアニミズムとシャマニズム」、「北方におけるエスニシティ(民族性)とアイデンティティ(帰属性)」という課題のもとに北方文化の特質を比較検討して来ました。
 その結果、人間と動物とは本質的には変わらないのだという初原的同一性の思考、人間と超自然との間の関係を互酬性として認識する思考、さらに、人間を含む自然全体を循環と共生としてとらえる思考などが北方文化の特質として抽出されました。さらに、これらの思考は北方における狩猟を中心とした生態、社会、世界観と深く結びついていることが明らかにされてきました。
 しかし、私はこれらの特質が北方文化にとどまらず、人類に見られる普遍的思考の1つではないかと考えています。このような人類の思考がなぜ生まれ、現在どのように機能しているのかを人類進化史的枠組みから明らかにすることは、人間の心の解明を行うことであり、「人間とは何か」という人類学の命題に答えることでもあります。北方文化から人類の普遍性の探求へと研究は展開しているのです。この展開には次に述べる社会規範、文化進化、紛争解決という領域があります。
2. 社会規範
 心の文化・生態学的基盤に関する拠点形成計画の一環として、進化ゲームモデルや実験と同時に、現実の社会を対象としたフィールドワークを行うことが必要になります。モデルや実験の結果をフィールドワークにより得られたデータにより検証し、さらにそこから 新たなモデルや実験を構築することが可能となるからです。このような科学的検証作業のくり返しにより、人間の普遍的理解に近づくことができるのです。このため、まず今までに蓄積されているフィールドデータの再整理と再検討が行われます。さらに、新たな視点から新たなフィールドワークが実施されることになります。
 人間の社会を可能としている心のメカニズムは社会の規範にあらわれます。ここでの規範とは文字に書かれた法律などの規則だけを意味するものではありません。日々の生活における人に対する接し方などのマナー、習慣、タブー(禁忌)などを広く含みます。たとえば、北方ユーラシア、カムチャツカ半島に住むトナカイ遊牧民であるコリヤークの人々は客人を手厚くもてなし、そのことにより家が裕福になると考えています。また、もし人の不幸を望むようであれば、逆に将来自分がそのような憂き目にあうと信じています。さらに、トナカイがたくさんふえるなど生産の多かった年には、その家族はトナカイレースなどの競技をもよおし、村人たちを招待し景品や食事をふるまいます。これらの規範や行動の背景には循環の思考や一般的互酬性の観念があると考えられます。人々は現実的な富の再分配のみならず、さまざまな規範を通して集団を維持し、そこでの人間関係を調整しようとしているのです。
3. 文化進化
 人類進化史における狩猟から遊牧への変化は、人間の世界観と行動にも大きな変化をもたらしています。世界観とは人間による世界の認識です。そこには文化により異なる部分もあり、逆に文化のちがいを越えて人類に普遍的だと思われる部分もあります。世界観はまた信仰であり、人間は儀礼を通して超自然的世界との関係を調整しようとしています。
 カナダの森林帯に住むトナカイの狩猟民は、狩猟とは霊的存在である動物が自ら肉を与えるために人々のところにやって来るものだと考えています。また、そのために人間はトナカイに対して敬意をささげなければなりません。ここでは、人間とトナカイとの関係は二者間における肉と敬意の直接交換であると認識されることになります。
 これに対して、トナカイ遊牧民である北方ユーラシアのコリヤークの人々は、トナカイから肉を得るが、そのトナカイの繁殖と健康のためにはギチギと呼ばれる火の神である家の守護霊とトナカイの主霊に対しトナカイを供犠します。つまり、人間は高次の神にトナカイを供犠し、高次の神はトナカイの群れに繁殖と健康を与え、トナカイは肉を人間に与えるということになります。ここでは神と人間とトナカイという三者間で間接交換が行われているということになります。
 トナカイの狩猟民と遊牧民の世界観には新たな神の出現とトナカイの霊性の喪失、そしてそれらの間の関係の変化が見られるのです。
4. 紛争解決
 北方文化におけるエスニシティアイデンティティの研究から、共生の思考というものが、民族間の紛争の解決に役割をはたしていることが明らかになって来ました。21世紀の前半は民族紛争の時代であるといわれます。社会主義国家の崩壊などに見られるように、国家と民族、民族と民族の関係が変化し、それまで抑圧されていた民族が自己主張を始めたからです。暴力を伴う大規模な紛争により多くの人々が命を奪われたり難民となっています。そこで、本来、おそらく文化の中に組み込まれているはずのさまざまな紛争解決のメカニズムを人類学的にさぐってみたいと考えたのです。
 民族間の紛争の現状を知るため、現在、GIS(地理情報システム)を用いて、世界における紛争地図を作成し、さまざまな情報を重ね合わせてその要因を広範囲な視点から明らかにしようとしています。
 同時にフィールドワークにより、具体的な紛争解決の事例を個別的に分析しています。アイヌ文化における文化復興をめぐる葛藤とその解決の分析を通して、共生の思考の役割が明らかにされようとしています。また、インドにおけるチベット難民の研究から、どのようにすれば民族間の紛争が解決できるのかをさぐっています。ダライ・ラマが亡命してからすでに50年近くが過ぎ、難民も第2世代、第3世代となっています。非暴力と慈悲によって紛争が解決するならば、それは人間の心のしくみによっていたと分析することが可能かも知れません。
 これらの研究の分析と検討から得られた成果が、将来人間の幸福にわずかでも貢献するのであれば、これらの研究を行った意味があると考えています。
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