北方研究からみえる人類学の今日的課題   煎本 孝

 北方文化とは北方地域独自にみられる生活様式―生態、社会、文化―であり、進化史的には新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の北方ユーラシアへの進出と北アメリカへの拡散にさかのぼり、現在に至るまで変化しながら継承、展開している北方地域文化の総体である(煎本 1992:1-2,11-12;2004a:1-2,54)。
 じつは北方文化を以上のように定義し、研究の方向性を定めたのは平成2年(1990年)10月に北方学会設立準備委員会が発足し、翌、平成3年(1991年)9月に北方学会(Northern Studies Association : NSA)が設立され、同年10月、学会設立記念第1回シンポジウムが北海道大学において開催された時のことであった。北方学会は、ユーラシアおよび北アメリカの多様な北方文化の研究と国際交流を通して、人類の理解に貢献することを目的として創設された。本学会は、地域研究学会としての特徴と、広く人間の研究という広義の人類学との特徴をあわせ持っている。地域研究としては、北方地域が対象であるが、ここには世界的に研究・情報の集積が整備されていないが大変重要な地域である北方ユーラシアと北アメリカが含まれる。日本はユーラシアの一端としての歴史、生態的、文化的特徴を持っているが、同時に環太平洋北部地域という観点からながめれば、北アメリカとも密接なつながりが認められる。そこで、日本を含むユーラシアと北アメリカを連続性のある一つのまとまった北方周極地域として研究対象とするということが重要になったのである。
 日本における北方研究は近世以来の長い歴史の上に独自の変遷と展開をとげて来た。研究対象はアイヌ文化から広くユーラシア、日本、北アメリカを含む北方周極地域諸文化へと展開し、研究方法も民族学民俗学から自然誌―自然と文化の人類学―へと変遷し、さらに研究目的も日本人と日本文化の起源を明らかにすることから、「人間とは何か」という人類学の普遍的課題の解明へと変化してきたのである(IRIMOTO 2004b)。
 ここで用いられる自然誌とは自然と文化の人類学と呼び得る新しい人類学の理論と方法論である。「自然」とは字義どおりには英語の「nature」に相当するが、日本語では「あるがままのさま」を意味し、「誌」は「記録」の意味である。ここでは、人間を自然であると同時に文化であると考え、自然人類学と文化人類学の交叉する領域である人間の生活を研究対象とする。さらに生活とはさまざまな活動の体系であると捉える。したがって、自然誌とは文化と自然とが重なり合う人間の諸活動の体系的記載であるということになる。また、経験的観察方法とは観察者が対象と同一化し、世界を内側から経験するという方法論である(煎本 1996:9-21; IRIMOTO 2004c: 291)。
 自然誌を通して、人間と動物とは本質的には変わらないのだという初原的同一性の思考、人間と自然との間の関係を超自然的互酬性として認識する思考、さらには、人間を含む自然全体を循環と共生としてとらえる思考などが北方文化の特質として抽出された。さらに、これらの思考は北方における狩猟を中心とした生態、社会、世界観と深く結びついていることが明らかにされた。しかし、私はこれらの特質が北方文化にとどまらず、人類に見られる普遍的思考の一つではないかと考えている。このような人類の思考がなぜ生まれ、現在どのように機能しているのかを人類進化史的枠組みから明らかにすることは、人間の心の解明を行うことであり、人間とは何かという人類学の命題に答えることでもある。北方文化から人類の普遍性の探求へと研究は展開しているのである。
 さらに、北方文化における民族性と帰属性の研究から、共生の思考というものが、民族間の紛争の解決に役割をはたしていることが明らかになって来た。アイヌ文化の創造や復興における共生の思考と行為主体の役割の重要性が指摘されたのである。21世紀の前半は民族紛争の時代であるといわれる。社会主義国家の崩壊などに見られるように、国家と民族、民族と民族の関係が変化し、それまで抑圧されていた民族が自己主張を始めたからである。暴力を伴う大規模な紛争により多くの人々が命を奪われたり難民となっている。そこで、本来、おそらく文化の中に組み込まれていたはずの、さまざまな紛争解決のメカニズムを人類学的に解明する必要があると考えられるのである。
 北方研究がこれらの問題の解決に貢献することができれば、人類学は「人間とは何か」という問いに答えるのみではなく、「人間はいかにあるべきか」という命題にも答えることになるはずである。私たちは北方研究を通して北方文化独自の課題のみならず、人類に共通する課題に直面するのである。北方文化を語ることはもはや地域に限定された課題を語ることを越え、そこからみえる人類学の今日的課題―生態、宗教、民族、言語、国家、民族性、帰属性、社会、行動、心、進化、紛争と紛争解決、研究の役割などーを語ることなのである。そうであれば、将来への展望として、21世紀は人類学にとって「人間性の時代」と呼び得るものになるはずである。
 以上の理論をもとに日本文化人類学会第39回研究大会(2005年5月21ー22日、於北海道大学)における特別シンポジウム「北方研究からみえる人類学の今日的課題」(21世紀COEプログラム「心の文化・生態的基盤に関する研究拠点(北海道大学、人文科学)」共催)が開催された。
 発表者と演題は以下の通りである。
1.煎本 孝 (北海道大学)「北方研究の展開」
2.加藤 忠 (社団法人北海道ウタリ協会・理事長)「研究の社会性、人道性について」
3.佐藤知己 (北海道大学)「アイヌ語研究の課題と展望」
4.佐々木史郎 (国立民族学博物館)「ポスト社会主義時代の北方人類学研究」
5.池谷和信 (国立民族学博物館)「チュクチ研究からみた人類の生態と地球環境問題」
6.岸上伸啓 (国立民族学博物館)「北方先住民と開発―カナダ・イヌイットの場合」
7.山田孝子 (京都大学)「文化復興から読む宗教と自然の意味―ハンティ、サハの事例から」
8.山岸俊男 (北海道大学)「心の文化・生態学的基盤」
9.中村睦男 (北海道大学・総長)「アイヌ・北方文化研究と北海道大学の役割」
 このシンポジウムでは、各発表者はそれぞれの視点から広く人間、社会、自然にかかわる課題について発表し、北方研究と人類学の今後の展望を検討した。なお、この成果は『現代文化人類学の課題―北方研究からみる』として出版されることになっている。
文献
煎本 孝
 1992「北方学会の設立にあたって」『北方学会報』1:1-2,11-12.
 1996『文化の自然誌』東京、東京大学出版会
 2004a「北方学と人類学」『北方学会報』10:1-4,52-54.
IRIMOTO, Takashi
 2004b“Northern Studies in Japan.” Japanese Review of Cultural Anthropology, 5:55-89.
 2004c The Eternal Cycle: Ecology, Worldview and Ritual of Reindeer Herders of Northern Kamchatka. Senri Ethnological Reports, No.48. Osaka: National Museum of Ethnology.
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