「北方学会」の設立にあたって   煎本 孝

 「北方学会(Northern Studies Association: NSA)」は、ユーラシアおよび北アメリカの多様な北方文化の研究と国際交流を通して、人類の理解に貢献することを目的として、平成2年10月に北方学会設立準備会が発足し、翌平成3年9月に創設された。本学会は、地域研究学会としての特徴と、広く人間の研究という広義の人類学との特徴をあわせ持っている。地域研究としては、北方地域が対象であるが、ここには世界的に研究・情報の集積が整備されていないが大変重要な地域であるユーラシアと北アメリカが含まれる。日本はユーラシアの一端としての歴史的、生態的、文化的特徴を持っているが、同時に環太平洋北部地域という観点からながめれば、北アメリカとも密接なつながりが認められる。そこで、日本を含むユーラシアと北アメリカを連続性のある1つのまとまった北方地域として研究対象とするということが重要になる。
 北方文化とは北方地域独自にみられる生活様式―技術、生態、社会、世界観―であり、進化史的には新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の北方ユーラシアへの進出と北アメリカへの拡散にさかのぼり、現在に至るまで変化しながら継承、開発されている北方地域文化の総体である。
 人類の進化史という視点からみれば、日本の旧石器文化は北方ユーラシアのそれとは無関係ではないし、これに続く縄文文化にも北方的要素が認められる。民族学的にも北方ユーラシア諸文化、北アメリカ諸文化とアイヌ文化との間には多くの共通点がみられる。たとえば、アイヌの熊祭りの背景にある世界観は、人間と神との間の互酬性の継続―すなわち狩猟対象動物とは肉と毛皮をかぶった神であり、これらを土産物として人間に贈り、人間からは礼拝と接待を受け、木幣をはじめとする土産物を受け取り、再び人間界を訪問することを招請されながら神の国に帰還する―という論理によって成り立っているが、この世界観は広く北方ユーラシアと北アメリカ諸文化に共通するものである。さらに、北方文化においては自然(神)と人間を結ぶものとしてのシャマニズム的世界観が重要となっている。
 また、生態学的には北方的自然の中で人間がいかに暮らしているかということが北方研究の対象になる。たとえば、積雪地帯に技術的に対応したカンジキは日本でも見られるが、特に北アメリカ森林インディアンで発達している。また、トナカイの飼育、牧畜はユーラシアに特徴的であるが、北アメリカでは伝統的に見られない。ここでは、トナカイと同じ生物学的種に属するカリブーアメリカ産野生トナカイ)は、狩猟の対象動物としての地位のみを占めている。これら文化の相違は、生態学的、歴史的条件に求めることができる。したがって、北方地域の比較研究は、人類文化史のみならず、日本人と日本文化の成立過程を解明するための重要な方法論となる。
 これら民族誌に記された北方地域の諸文化は変化しながら現在に至っている。現在の北方地域の比較研究は先史文化、民族誌と同様に重要である。たとえば、北海道は北欧、独立国家共同体旧ソ連邦)、カナダ、アメリカ合衆国をはじめ多くの北方諸国と共通の自然環境にあり、長い冬をいかに快適に暮らすかという共通の問題を持っている。さらに、環境の変化が北方の生態系におよぼす影響は大きく、一国だけの問題としてだけではなく、北方地域共通の課題とする必要がある。また、カナダを例にとると歴史的にも日本と多くの共通点がある。カナダの多極外交主義、多文化主義は、現在急激に変貌する北方の社会と国際関係における、今後の政治―文化モデルの1つとして比較研究の余地がある。
 北方地域研究は、同時に広く人間の研究でもある。北方の生態、社会、世界観と、これらの間の相互関係の研究は、他の地域―たとえばアフリカ、オセアニア―と比較することにより人類一般の理論と理解に通じるものと考えられる。北方地域を文化的な領域と考え、広くユーラシア大陸北アメリカ大陸を設定しながら、その文化的特徴が北方の特質なのか、人類に普遍的なものなのかを常に他の地域と比較検討しながら研究を進めていくという方法をとることができる。そうすることにより、北方文化を人類文化全体の中で位置づけながら、同時に「人間とは何か」という、より一般的な問題にも近づくことができるからである。
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